僕らは何者でもないのさ

多すぎ大人の選択肢

アナログは死なない

これは完全な私論のひとり言になるが、

アナログは死なない。なぜなら、僕たちだってアナログだからだ。

とりあえずは2045年までは死なないんじゃないの、と思う。

そもそもデジタルってなんだ、と考えたときこれは「無限」のことだと思う。「無限」のスペース、「無限」の可能性。このブログだって、僕が書こうと思えばいくらでも書ける(はてなの設定がどうかは置いといて)。僕自身でいくらでもデザインを施せる。

昔は、これがすごいことだと思っていた。でも、いま思うと良いことでもあるし悪いことでもあると思えてきた。

 

 何を言いたいかというと、デジタルがツールから、ベースになったらダメなのだと思う。その時点で何かが死ぬ、それは人なのかコンテンツなのか。

 

無限のフィールドで、何かを作っていくとしたら「しょうがない」という言葉は禁句だ。足りなくなったら、足せばいいという思考がそこにある。つまりは「終わり」がなくなる。

昨年の「WELQ」問題だって、「電通」だって、それが根幹にあった。

インターネット記事はクリック数×単価だから記事数を増やしたほうが儲かるに決まっている。ありがたいことに、いくら増やしても消さなきゃいけないものはない。Web広告は決まったスペースに半永久的に広告を流し込んでいく。そして、その広告を半永久的に値付けしていくのは人間だ。

デジタル、そこでは人は管理していく立場であり、自分から混ざっていく存在ではない。

 

反対にアナログは何かというとそれはもちろん「有限」だ。

ひと昔までは、その「無限」と「有限」の比較的な視点から、アナログの不可能性ばかり見ようとしていなかったか。いまは確実に潮流がそこではない視点へと移ってきている。

「有限」であることへの可能性。

たとえば、1冊の紙媒体の雑誌を基にすると、そこには紙という媒体の性質とページ数と大きさで制限される。それは様々な要素から決定されていくのだが、しかし、どの要素も人間の都合だ。持ち運べるとか、購入できる値段かとか。

まあ、だいたい500円くらいで、ページ数は150ページくらいで、良質な紙が使えるページが50ページくらいの雑誌を、週刊でといったことになるだろう。

そうなったとき、自ずと、どこのページが最優先か決まってくる。もちろんいい紙が使えるところが一番いいコンテンツになる。そして、コンテンツを作る数も決まってくる。

この時点で働き方も決まってくる、はずだ。

ページの限度があれば、コンテンツも企画段階で選り抜きのものになってくる。

コンテンツを作る時も、週刊といった期限があれば一人で何でもやるなんてことはベストじゃない、ということがわかる。そうすれば、文章を書くこと、写真を書くこと、デザインをすること、それぞれに専門の人が必要だ。そうすれば、多くの人の視点が入ってくる。視点が多いほうが良いということは、もうわかりきっていることでしょう。

ベースがアナログにあるというのはこういうことだ。こんなにもWeb全盛の時代で「dマガジン」がそれなりの存在感を発揮してくるというのは、少しの理由があるのでは。

 

でも、AIが人間を追い越す、2045年になったら死ぬかもね

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